龍安寺の石庭

 門を入ってから鏡容池を左に回ってしまったので、石庭を見た帰りの観光客とすれ違うことになってしまった。途中から順路へ戻るのも癪なので、そのまま歩いて行くと、西源院に出た。そこで湯豆腐を食べることにした。自転車を立命館において、早足で歩いてきたから、体の中を時間が急ぎ足で過ぎていく。それを落ち着けたい。そうしないと、何のために龍安寺まで来たかわからなくなってしまう。

 湯豆腐だけを頼んで庭を見ながら足を伸ばす。苔の生した庭園では、職人が石橋を直している。その下には獅子脅しがあって、橋影から時を刻んでいる。隣には東京から来た三人づれの観光客。職場の給料の低さを嘆いてから、タイに旅行で行った時の話をしている。ここまで来て、そんな話、しなくてもいいのに。
 湯豆腐は、たぶん、一と半丁はあったろう。ずいぶんな量でお腹がいっぱいになった。庭を見ながら、ゆっくり、ゆっくりと食べる。体の中の時間、そして心がだんだんと落ち着いてくる気がする。

 池を右手に見ながら、今度は順路に沿って歩く。前に石庭を観に行ったことがあったかどうか。そう言うと、何人もが観るようにと勧めてくれるのだけれど、その人たちの印象を、そして、今までそれについて読んだり聞いたりしたことを観に行くことになってしまう気がして、あまり乗り気になれなかった。今日、その気になったのは、そろそろ京都での生活に飽き飽きし始めている自分を見出したので、何か新しい刺激を与えようと思ったから。多くの人が心に深い印象を残している場所だもの、きっと、何か、あるのだろう。

 寺務所から上がって右に曲がれば、すぐそこに石庭がある。思ったより小さくて拍子抜けしてしまい、その拍子抜けした自分が少し嫌になってしまった。一体、何を期待していたのだろう。もっとも、今、方丈が工事中なので、石庭を見られる縁側がいつもよりせり出している、という理由はあるのだけれど。

 すべての石を一時に見ることはできない、というのを縁側の端から端まで歩いて確認してから、少し引っ込んだ、段になっているところに座る。人々が通り過ぎていく。食い入るように石庭を見つめ続ける人、縁側から身を乗り出して高価なカメラで写真を撮る人、自分たちの写真を撮ってもらう人、解説を読む人・・・。
 
 ぼんやりと石庭を眺めていると、ふと、何か、写真か絵を眺めている気になった。自分が今まで石庭について読むなり聞くなり見るなりしたイメージが重なってしまっているのだろう、と思ったが、どうやらそうではないらしい。
 縁側の端まで出る。置かれている石が山、苔が島、白州が海だ、と小さいころに感じたのを思い出した。だったら、やはり来たことがあったのだろうか。それとも、そういう説明を読んだのが記憶にのぼってきたのかしら。
 心に引っかかったのは、あたりまえのことだけれど、その白洲が動かない、ということ。海で波が立っているように見えるにもかかわらず、それは微動だにしない。
 だんだんと心がかき乱されてくる。この庭は動かない。先ほどの西源院ではどうだったか。そこには木が生え、水が流れ、何かが動いていた。ここにはただ永遠があるだけ。永遠という一瞬が切り取られて形になっている。それを見ている私たちの、いかにちっぽけで、ふわふわしたことか。縁側の外と内で永遠に変わらないものと永遠に変わるものが対峙している。庭を見る、その見る、という行為が、一瞬の肉体をもったものの一瞬のできごとでしかない。いや、私たちが庭を見ているのではなく、庭が私たちを見ているのかも知れない。そう考えると、心を落ち着けて平静に庭を鑑賞する、できなくなってしまう。いくら鑑賞したところで、いくら庭についての解釈を考えた見たところで、それは何物も庭に与えない。庭はただこちたを静かに見ている。

 カップルが横に来て写真を撮っている。女の子「これ、めちゃくちゃにしてみたくない?」男の子「思わん」「ほんま?」「お前おかしいんや」「そうかなあ。周りにそう思ってる人、多いよ」「おるかもしれんけど、俺はそういう人きらい」
 たぶん、めちゃくちゃにしたところで、何も変わらないのだろう。人間がこの庭にできることなど、何もないだろうから。しかし、めちゃくちゃにしてみたい、と思わない人はいないのではないだろうか。この永遠を前にしては、誰もが自分が刹那であることを不安に感じるだろうから。
 すべての石を同時に見られないのは、人間の不完全性を表しているという。しかし、その不完全性を作り上げた人間とは何だったのだろうか。いや、「人間」がこれを作ったのだろうか。人間の姿を借りた永遠への意思、もしくは、永遠そのもの、ではないだろうか。そうだとしたら、作者が誰であるか、というのは、実はどうでもいいことだ。

 とりとめもなく、そんなことを考えていたら、ふらふらになってきたので、慌てて立ち上がって庭を離れた。方丈を一周してから庭を眺めると、それはさきほどより遠くなって、そして大きくなっているように思えた。